1984年の春、私は中学生となりました。中学校時代の3年間は、X1との付き合い方において大きな動きはありませんでしたが、後の創作活動へのエネルギーを蓄える充電時間だったと今では感じています。今回は、そんな多感な中学生の頃のエピソードです。
他人の家でゲームを遊び倒す
中学生になって一番大きな変化は、同好の士の存在でした。それまでは基本的に一人で孤独にパソコンに向かう毎日でしたが、1984年以降になるとパソコンがホビーとして一般化したためか、一気に周囲にパソコンユーザーが増えることとなります。ざっと記憶に残っているだけでもPC-8801(後にSRユーザーも増えてくる)、FM-7、FM77AV、X1c、X1turbo、MSX(PASOPIA IQ)と、一気にバラエティ豊かになりました。おかげで、ほぼ毎日のように誰かの家に遊びに行っては、さまざまなパソコンならではのゲームを遊ばせてもらったものです。『EGGY』『ハイドライド』『リングの上は大さわぎ』『ダーククリスタル』『ブラックオニキス』『夢幻の心臓』『ファンタジアン』『リグラス』『ザナドゥ』……まさにパソコンゲーム市場が花開く、初期の名作タイトルの数々をリアルタイムで遊べたことはまさに至福の一言でした。
さらに、教室にパソコン雑誌を持ち込んで回し読みをしたり(特に『ベーマガ』『ログイン』が多く、『テクノポリス』『ポプコム』はアニメファン的後ろめたさゆえか、大手を振って買うヤツは少なかった。『コンプティーク』はさらに少なかった(笑))、電波新聞社の『イシター』『沙羅曼蛇』などのカンペン入り文具セットを買っているヤツが何人かいたのも覚えています。このような当時の友達の存在が私自身の感性を磨き、ゲームやパソコンに対する視野を広げることに繋がりました。
その一方で、ゲーム人口を爆発的に増やした大きなトピックを忘れてはいけません。1983年に発売され、社会現象まで巻き起こした任天堂の家庭用ゲーム機、ファミリーコンピュータです。全世界だけで6000万台以上売り上げたバケモノハードだけにクラス内での保有率はパソコンの比ではなく、こちらも友達の家を渡り歩いては遊ばせてもらう日々でした(X1が家にあるおかげでファミコンは買ってもらえなかった)。
ファミコンはゲームに特化したハードウェア構成のおかげで、アーケードゲームメーカー各社が参入。当時の有名どころのタイトルは大抵移植されていました。そのため、「アーケードゲーム移植はファミコンで」「アドベンチャーやRPGなどの多様性あるゲームはパソコンで」という住み分けが私の中で自然となされるようになっていきます。
なお、この当時のアーケード事情については長くなるため、別の回で触れたいと思います。
大作を作ろうとして息切れする中学生時代
前回の『ゼビウス』で市販ゲームの格の違いを見せつけられた私は、「アーケードゲームがすべてのゲームの基準」という発想から、「パソコン独自のゲームデザイン」という考え方に移り変わっていましたが、中学生時代に出会ったアドベンチャーゲームやRPGといった、パソコンゲームの独自の魅力に触れていたのも大きな理由だったのかもしれません。
そのため、この頃の自作プログラムは、友達と一緒にアドベンチャーゲームや横スクロールアクション(これは『スーパーマリオ』の影響)を作ろうとするなど、小学生の頃に比べて明らかに大作指向化しているのが見て取れます。自分ひとりだけなら「作ったゲームで遊ぶこと」が主目的だったために、ワンアイデアでコンパクトにまとめて完成させてしまうことが多いのですが、複数人数でゲームアイデアを考えようとすると、どんどん規模が膨れてしまうんですよね。必然的に、作っている間に途中で飽きてしまうケースが多く、完成したものは殆どありませんでした。
なお、当時の資料や作りかけのプログラムは残念ながらまったく残っていません。
この頃になると、他機種は記録媒体をカセットテープからフロッピーディスクに移しつつあり、カセットテープのままだった初代X1であることに少々肩身の狭い思いをしている自分がいました。
X1のデータレコーダーの処理速度は決して遅いものではなく(むしろ最速の部類)、リセットしてからBASICを読み込むまでに2分ほど待たされはしましたが、むしろ今時のWindows PCの方が起動に時間がかかるだけに、さほど気にはしていませんでした。しかし、友達の家でフロッピーディスクベースのゲームを散々体験していた身としては、そのスピードの速さと大容量、利便性の良さに思慕の情を抱くようになり、次第に初代X1に限界を感じつつあったのも偽らざる本音だったのです。