第1回:私がテクポリ編集部員になった理由

このサイトを始めてから……というか、中の連載「我が愛しのX1」を初めて以来よく聞かれるようになったのは「あれだけブログでベーマガベーマガ言ってる人が、なんでベーマガライターの道に進まなかったんですか?」という質問。私の現在の職業が作家であり編集者なわけで、なぜその道に踏み込むようになったのか。

ツイッターや各所イベントで幾度と触れているので知っている人はご存知だと思いますが、私はその昔存在したパソコン雑誌「テクノポリス」(徳間書店インターメディア)出身です。電波新聞社という新聞社が母体なだけにどこか優等生的なマイコンBASICマガジンと違って、ヤンチャな雰囲気……はっきり言ってちょっとカゲキなパソコン♥プレイングMagazine路線を突っ走っていたテクノポリスに何故行くことになったのか。ここではその辺について語ってみたいと思います。

志望動機は「ゲームを遊びたい」

話は1990年に遡りますが、実は別段パソコン雑誌の編集をしたいという気持ちはありませんでした。この頃はPCエンジンやメガドライブといったポストファミコン機の躍進がめざましく、元々アーケードゲームが好きな私にとってこの2機種は恰好なゲーム機でした(この時にはまだスーパーファミコンは未発売)。

昔の私だったら「ゲームを作りたい」→「ゲーム会社に就職」を間違いなく選んでいたでしょうが、遊びたいゲームが溢れていたこの頃は、単純に「ゲームを遊びたい」が勝っていたんですね。そこで、ゲームに触れていられる職業ということで、ゲーム雑誌の編集に憧れていたというのが正直な動機です。ちょうどこの頃は徳間書店のPCエンジンFANが誌面刷新でリニューアル、メガドライブFANが独立創刊と、スタッフ増員をかけていた時期でして、ちょうどその募集告知を見て「これは!」とばかりに応募をしたのでした(PCエンジンの新作ゲームはもちろん、もしかしたらアーケードゲームもタダゲー三昧できるかも!?という邪な動機もちょっとは含まれていました)。

▲募集告知が載った当時のPCエンジンFAN(1980年8月号)と、その告知ページ

募集要項にあった800文字の自由作文は、もはやどんなことを書いたのか覚えてはいませんが、正直それほど文章力に自信があったわけではありません。そもそも、他人に読ませることを目的とした文章を書くこと自体が初めてという体たらくでした。ただ、応募原稿とはいえそれほど気負って書いた記憶はないので、もしかしたら、それなりに文章書きとしての素質はあったのかもしれませんね。

無事に書類選考を通過して面接に進んだのですが、ここでのやり取りはほとんど覚えていません。名目はPCエンジンFANおよびメガドライブFANの面接だったのですが、面接担当が4~5人ほどいたので、おそらくインターメディア内の各雑誌編集長クラスの方々だったのでしょう。「どんなゲームが好きか」「どんな企画をやりたいか」など割と通り一遍な質問をされた記憶があります。

結果はあえなく落選。しかし……

結果的に、その日の夜にかかってきた電話にて、志望していたPCエンジンFANの選考から漏れた旨が伝えられたのですが、電話口からはその後に「PCエンジンFANの件は残念だったけど、前田くんってプログラムができるんだよね? ウチ(テクノポリス)に来ない?」というお誘いの言葉が。電話の主は、テクノポリス編集長・和田氏だったのです。

冒頭でも書いた通り、当時の私の興味はアーケード&家庭用ゲーム機に寄っていたため、テクノポリスにはそれほど興味もなかった(というよりほとんど読んでいなかった)のですが、「これもせっかくの縁」とお引き受けすることに。
こうやって、編集者としての人生を踏み出すことになったのでした。

で、結局なぜベーマガに行かなかったか?

あ、そうそう。最初の「なぜベーマガに行かなかったか?」に対する回答ですが、小学生の頃から読んでいた当時の自分にとってベーマガはあまりにも別格だったんですよね。一度だけ高校時代に友人と電波新聞社へ訪れたのですが、緊張しすぎてお土産にベーマガ原稿用紙をいただいたくらいしか印象に残っていなかったという、恥ずかしい有様でした。

ちなみに、その一緒に行った友人は後にベーマガで第三次レスキュー隊となりました。人の人生はホント、何がきっかけで転がるかわからないものです(笑)。

ABOUTこの記事をかいた人

1972年愛媛県松山市生まれ。アーケード、家庭用、PCはもとより美少女ゲームまで何でも遊ぶ、ストライクゾーンの広い古参ゲーマー。ただし、下手の横好きがたたり、実力でクリアできたゲームの数は決して多くないのが弱点。