第7回:「ぴゅう太はつらいよ」の巻

わたくし、生まれも育ちも葛飾立石です

「男はつらいよ」という映画がございます。題名のとおりに、男の意地による自らに課したつらさ厳しさを。そして貧しくとも、笑いと涙と、ほんの少しの優しさにまみれて懸命に生きる人たちを主題とされた映画であることは、自分などがわざわざ書かずとも皆様ご存知のはずですな。

男はつらいよ

男はつらいよ

TINY野郎さんという方がぴゅう太用に音楽作成ツールを作ってくださいました。そのツールにて、なるとさんという方が音楽のデータを作ってくださり、またツールによる絵の表示機能実装の前に上記写真の絵のデータも作ってくださいました。そのデータを、たなむさんという方が作ってくださった機器に。ぴゅう太買えやの盟友であるpoipoiさんが、なにもできない自分にもすぐに楽しめるようにとデータを入れてくれました。ありがとうございます。

ぴゅう太は東京の下町、葛飾区は立石の玩具会社トミーより発売されました。自分はここには大きな意味があると思っています。そしてできることであれば。この作文を、あの日の月、3月中に書き上げたかったのです。

繰り返してはならない

先の大戦にて。東京の、あるいは地方の都市部の子どもたちは疎開を余儀なくされました。疎開先にて、当時の状況を考えれば仕方ない部分もあるでしょうが、よそ者として扱われ大変つらい思いをされた人もおられました。

都市への、つまり非戦闘員である民間人への殺戮である空襲で。特によく知られている東京大空襲ではたった一晩で、死傷者が150000人にのぼったそうです。東京の下町などを少し歩くと、小さな、それは小さな、空襲による被害者への慰霊の碑などがそっと置かれているのを目にします。隅田川にかかる橋には戦前からかかるものもありますが、空襲時のあまりの高熱のために人の身体から溶け出した脂が橋の石ににじみ、その名残をみてとれる場所もあります。

戦災孤児

疎開先から東京へ帰ってきた子どもたちは、親を、兄弟を、友達を、そしてふるさとさえ、失くしてしまいました。戦後、上野あたりには浮浪児と呼ばれた戦災孤児たちが集まり、生き延びるために手段を選んではおられなかったと聞きます。先日、二期の放送が最終回を迎えた「おそ松さん」に登場していたチビ太というキャラクターは、たくましく生きる戦災孤児の子どもがモデルであったそうです。たしかに原作の中では家も親も無く、しかし主人公の六つ子以上に生き生きとした生命力に満ちていたキャラクターでした。

綺麗ごとでは済まないとはいえ。そんな状況をなんとかしなければと考えた大人たちがおられたのは、ごく自然の成り行きでありましょう。子どもたちに、たくましくありつつも健やかに、楽しく生きてほしいと大人が願う気持ちは。大空襲にて甚大な被害を受けた下町ではなおさらのことだったのではないかと考えるのです。

人が悲惨さを踏み越えて望んだもの

ちくま文庫から「「ガロ」編集長」という本が出版されています。これは漫画雑誌「ガロ」の初代編集長であり、青林堂の社長でもあられた長井 勝一さんという方による、漫画の戦後史とも言える素晴らしい本です。その中で、戦争が終わり人がまず求めたのは娯楽であったと。めちゃくちゃに繋ぎ合わせただけの漫画本が飛ぶように売れたと。それは申し訳ないことではあったけれど、しかし人々がどれだけ娯楽に飢えていたのかの証であると、そう綴られています。

大人が娯楽にそれほど飢えていた。ならば。子どもたちはなおさらのことであったろうと、想像がつきます。

特に東京の下町に、駄菓子屋が、玩具会社が、印象深くあることには。戦中戦後、つらい思いをした子どもたちへの大人からの罪滅ぼしではなかったかと。各会社様の歴史などは一切、関係なきことはお断りした上にて、自分はそう思うのです。

そしてコンピュータゲームへ

さて、コンピュータゲームでありますが。ぱっと思いつくだけでも。駒形、蔵前、青戸、立石には大きな玩具会社様がございます。そしてその各社から、輸入品である光速船やインテレビジョンやアルカディア、国産品のM5やカセットビジョン、ぴゅう太などが発売されました。それらになんとも言えない駄菓子のような、雑多で粗野で、しかしたくましさというか、元気よさを感じ取るのは、自分だけではないと思います。しまいに京都や芝浦の品の良さ、育ちの良さにトンビにあぶらげのごとくかっさらわれてしまうところなんかも絡めて面白おかしく語る方がおられるところも、いかにもな感じがして、元気のよさ、たくましさの象徴のような気がして、仕方がないのです。

きょうこうばんたん引き立って 宜しく お頼み申します

ところで。映画「男はつらいよ」は渥美清さんがお亡くなりになられたことで未完となりましたが。その最終場面の構想は出来上がっていたそうですな。旅にでることもなくなり、帝釈天様の幼稚園にて庭男をしていた寅次郎が。園児たちとかくれんぼをして棚の中に隠れた際。そのまま棚の中で、そっと笑顔で息を引き取るというものだったとか。自分はここに、かつて子どもたちと楽しく遊んでくれて、いまは押入れに仕舞いこまれているゲームマッシーンやマイコンに通ずるものを感じます。

江戸川の東から。矢切の渡し、柴又、青戸、立石、東京スカイツリー、蔵前、駒形を臨んで。その向こうに夕陽が落ちるのをみると。人類史上他に類をみないほどの残虐な仕打ちによるつらさ、悲しささえも踏み越えて。天高く貫くほどに元気に、たくましく、泣き笑い、ほんの少しの優しさを失わず、いまのガキどもにもそう生きてほしいと、願う次第です。ぴゅう太買えやと、ぴゅう太買って楽しく愉快に健やかに遊べやと、ほざき続ける次第です。

 

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