第6回:「復刻と保存について」の巻

コンピュータゲームの復刻や保存

ぴゅう太に限らず。古いコンピュータゲームや古いゲームマッシーン、古いパーソナルコンピュータは一年を経るごとに、データの消失や機械の故障、部品類の生産中止などによって少しずつ少しずつ、それらを手に取り遊ぶ機会が失われていきます。コンピュータゲームの保存を強く訴える団体様もございます。また復刻販売などをされるものもありますが、それらはいまのところまだほんの一部であり。また復刻そのものにも、それが果たしてどこまで元々の原型や志を汲んでいるのかと考えさせられることもございます。今回はぴゅう太買えやソフトではなく、古いコンピュータゲームの行く末について、作文させて頂きたく存じます。といっても、この命題について書き始めれば、一度二度の作文では収まりきるわけがありません。毎度のことながら取り留めのない半端な作文とはなりますが、何卒宜しくお願い申し上げます。

大人気とひっかかりと矛盾

ミニスーパーファミコン、ミニファミコンをはじめとして、ひとつのマッシーンに沢山の古いコンピュータゲームを収めた復刻機械が大変人気のようです。現在のテクノロジーに合わせた新機能や、かつて未発売となってしまったコンピュータゲームを含めたりと、とても素晴らしく有難いものも発売されております。それらはもちろん、コンピュータゲームの版権などにまつわる企業の思惑などもありましょう。しかし楽しく愉快に健やかに遊ぶ際には、そんな思惑などは関係ありません。

特に任天堂から発売された復刻マッシーンの素晴らしさによって、ツイッタなどでは他社のマッシーンの復刻を願う発言などをよくみかけます。ここで数行前の文章と矛盾が生じるのではありますが。たとえば「タカラトミーからぴゅう太の復刻を」という文言を拝見した際、どうしても心にひっかかることがあるのです。

もし本当に、ぴゅう太が何らかの形で復刻されたとして。元々のぴゅう太に込められた大人から子どもたちへの優しさが、玩具に通ずる暖かさが、どこまで再現なされるのか。あるいはそういった思惑や志は別として、ともかく形として復刻がなされるのか。もしそうであるならば、果たしてそれはぴゅう太であると言えるのか・・・。楽しく愉快に健やかに遊ぶ際に思惑などは関係ないと書いておきながら、それらが心にひっかかるのです。大きな矛盾です。

置き去りにしたくないもの

ぴゅう太には楽しくお絵かきができるG-GRAPHICと、それと連携してゲーム作りやプログラミングの基礎を学ぶことができる日本語G-BASICが搭載されています。カートリッジゲームのほとんどには、端子部分に子どもの手が触れぬよう、防護の部品が取り付けられています。それは本体に取り付けた際に勝手に押し上げされるよう工夫がなされており、操作の邪魔に一切なりません。ときどき揶揄の対象となっている日本語G-BASICも、当時の状況を鑑みれば、よくよく考えられた末の本気漲る決断であったことが分かります。それはマニアのものであったコンピュータを、子どもたちの目線へとおろそうとした、コンピュータとはどんなものなのか知ってもらおうとした子どもたちへの優しさであり、当時からみて未来のコンピュータ社会へと臨むことになる子どもたちへの期待であり、希望が刻み込まれているのです。

もしぴゅう太が復刻なされるとしたら、そして前述のそれらをもし置き去りにしたとしたら。それはぴゅう太と同じ挙動をし、各部品類の再現がなされただけの、人間で言えば肉体だけの再現ではなかろうか。心は、精神は、志は、どこにあるのだろうかなどと、愚にもつかぬことが気になるのです。あるいは。再現の際に新たな心が刻み込まれるのかもしれません。それはたとえば、ともかく形だけでも徹底した再現を、という職人気質のような志かもしれません。元々のぴゅう太における志とは別に、それはそれで情熱溢れる素晴らしき志でありますね。

けれど。ゲームのお祭りなどで現在の子どもたちが古いコンピュータゲームで遊んでいる姿をみていると。ただただ楽しく遊んでいるようです。あの姿にこそ、自分も含め誰かの思惑など関係なく、ただただコンピュータゲームを楽しく遊ぶという最も大切で最も見失ってはいけない原点があるのだと確信しております。

ガキどもに残す道しるべ

コンピュータゲームを文化だと、あるいは芸術だと捉え、その保存を高らかに宣言なされる方々がおられます。そこには少なからず、子どもたちがいつか未来への道程に迷ったときのための、道しるべとなる足跡として遺すべきだというお気持ちがあるのだと信じています。そして自分と同じく、コンピュータゲームは人生そのものであり、自身の思い出と共に後腐れなく消え失せるのみと考える方もおられるかもしれません。しかしそう考えつつも、子どもたちが古いコンピュータゲームで楽しく愉快に健やかに遊んでいる姿をみて、どうかその姿が未来永劫続きますように、繰り返されますようにと勝手ながら願う気持ちも、誰にも嘘偽りなくあるとまた信じております。

かつての あの人らのように

自分の場合、偶然が続いただけなのかもしれませんが。これまで出会ったコンピュータゲームを生業となされ、あるいは趣味として愛されておられる方々は。同時に、それを楽しく遊ぶ子どもたちに優しい方々がほとんどでした。

その子どもが差別されていることを知りながらそれを口に出さず、子どもが夜中に盛り場の裏にいることにもやはり口を出さず、自身の目の届くところで安全にそっとビデオゲームを遊ばせてくれた反社会的と言われる団体に所属していたおじちゃんとその愛人であったであろうおねえさん。基板改造という世間様におおっぴらにはできなかった仕事にて学費や生活費を稼ぎつつ、子どもへの思いやりを忘れておられなかったもの静かなおにいさん。子どもに本気でコンピュータゲームの仕組みを教えてくれた風呂屋の若旦那。子どもたちとの短い出会いを大切にされ、玩具売り場のお仕事に誇りを抱かれていたおねえさん。子どもからの馬鹿な電話に親身に対応してくださって、顧客として大切に扱ってくださったソフト会社や玩具会社のおにいさんおねえさんやおじちゃんおばちゃん。数々のゲームマッシーンや玩具向けのホビーマイコン、特にぴゅう太は日本の誇りだと力強く力説し、過疎の町にてそれでも子どもたちのために店を続けておられた玩具屋のおじいさん。デパート屋上のゲームコーナーで、こちらから頼まずとも子どもたちに危険がないよう常に目を配ってくれていたアルバイトのあんちゃんがた。そして、自分は直接関わりのある方はおられないのですが、エロティックソフトを記事として扱うことを良しとせず、あくまで健全で未来への足がかりとなる紙面作りを全うなされ、それらが当時の子どもたちであった現在の大人たちにずっとずっと心の中で評価され続け、近年ついにその雑誌を偲び復活を心から願う素晴らしき祭りが二度までも行われたプログラム雑誌の編集に携われた方々。

復刻であれ、保存であれ、思い出であれ。行き着く先はやはり子どもたちへの優しさであるならば。未来への道しるべであるならば。心にひっかかることも、気になることも、それは恐らくは単なる自身の心の染みなのでありましょう。ならば。機器が、ソフトウェアが、素晴らしき技術力やメーカーの思惑によって復刻なされるたび。自分はこれまで受け取った大人たちの子どもへの心を、これまで通りささやかながら伝え続けていこうと決意し、本年最初の作文のまとめとさせて頂きます。お読み頂きありがとうございました。本年も何卒、宜しくお願い申し上げます。

追伸

poipoiさんがぴゅう太買えやソフトの動画を作ってくださいました。恐縮ながら本作文中に貼らせて頂いております。またぴゅう太買えやのホームページと、ついでに昔作ったうんこくさいホームページのURLもはっつけさせて頂きます。

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